第一話

 あの時のマウンドは、今でも夢に見てうなされる。
 九回裏二死満塁。絵に描いたようなギリギリの状況で、俺はマウンドに立っていた。投げれば、どうあっても決着がつく。勝つにしろ負けるにしろだ。
 俺は投げた。けれど、俺の肘が壊れたのはこのタイミングだ。今まで騙し騙しやってきたのが、最後の最後で耐え切れなくなったのだ。ボールを取り落とし、ボークを宣言され、押し出しの逆転負け。肘をおさえてうずくまった俺は、そのまま救急車で運ばれた。
 俺は勝負に挑むことすら許されなかった。

 引退した俺は、実家に帰り、ブラブラしていた。野球以外知らずにこの年まで来た男に務まる仕事などある訳でもなく、マスコミに垂れ流したビッグマウスな俺のイメージが邪魔して、野球の解説者の仕事が回ってくることもなかった。
 周囲の腫れ物を見る視線の居心地の悪さに、感覚が鈍磨して慣れてきた頃、その男はやってきた。
「アリス・インダストリーの栃村と申します」
 会うだけでも謝礼を出す、と言う言葉につられてのこのこ駅前の喫茶店に20分遅れで顔を出した俺を迎えたのは、これと言った特徴のない、眼鏡をかけた小柄なスーツの男だった。名刺には営業の文字の入った長い肩書きがあったが、俺は最初から覚えるのは諦めた。
 男は俺が遅れたことについては何も言わず、顔に愛想笑いを貼り付けてべらべらと色々なことをしゃべった。会社が何をしているかだとか、自分は昔かなりのどもり癖があって苦労したとか、どうでもいいことだ。
 ウェイトレスを呼んで冷め切ったホットのおかわりを頼み、湯気の立つコーヒーが二つテーブルに置かれたのを確認してから、俺は栃村の言葉をさえぎり口を開いた。
「あー、それで。アリス・インダストリーの……」
「栃村です」
「栃村さん。それで一体、俺に何の用です?」
 栃村はそこではじめて口をつぐみ、周囲を見回し、軽く咳払いをしてから声を潜めて真顔でこう言った。
「我が社のチームに、あなたを監督としてお迎えしたいのです」

 鍋常の脳の血管が破れ、血液を脳細胞にぶちまけて台無しにした事件からほどなくして、鍋常はロクに言葉がしゃべれなくなり様々な役職から引退した。引退はしたがほとんどは新しい名誉職に切り替わっただけだったが、実権はなく、老人ホームの「家賃」を与えるための捨扶持であることは誰でも理解していた。野球しか知らないこの俺でさえもだ。
 重石のなくなった球界は、リーグの分裂、球団の新設、球団のリーグ移動、選手の民族大移動などの激動の時代を迎えた。リーグごとにルールも微妙に変わり、ユニフォームも個性化し、ショービジネスの要素が取り入れられた。
 俺が実家から帰った直後、能天気な親父が野球について何か言っていた。確か、一昔前のプロレスみたいだ、とか。プロレスは格闘技ではなくショーなんだそうな。勝ち負けは最初に決まっており、選手はそのキャラクター性やストーリーなどを盛り上げて客を喜ばせるのが仕事なんだそうな。無論、そのパフォーマンスには頑健な肉体や高度な技術が必要であり、「つくり」なしでやらせればプロレスラーは決して素人ではないとか。
 正直プロレスのことなどどうでもよかったが、真剣試合ではなくショーであると言う意見には、俺も頷かざるを得なかった。
 俺が投手として所属していた球団は、最も古くからある二つのリーグの中央の方に所属しており、このリーグは技術志向、真剣勝負をウリにしていると野球ファンからは認識されている。それ以外のリーグは基本的にそこからあぶれた選手や新人だけで構成されているので、自然に技術よりもショーの要素で売るしかなかったのだ。
 ホログラフを駆使してリオのカーニバル大名行列を作り出し、それに合わせてブルペンからマウンドに上る投手など珍しくなかった。俺はそんなことはしなかったが。四番バッターにも時代錯誤なことに、酒を口に含み日本刀よろしくバットに吹きかけるパフォーマンスをする奴がいた。後で聞いたら、さすがに試合中に酒は飲まないらしく、容器を変えたミネラルウォーターだったそうだが。
 何より変わったのは、新しいリーグでは性別に関する規定が撤廃されたことだろう。むしろ「性別は問わない」と言った条文が追加されたところもある。国籍条項は真っ先に撤廃された。選手がそろわなければ試合もできないからだ。そんな訳で、新リーグの球団はそれぞれ国際色豊かなメンツがずらりと並ぶことになる。

 話を戻すと、アリス・インダストリーとやらもこのバブリーな時期に新規参入を決めた企業で、現在新球団の選手は集まったものの、監督がいない状況だ。正直、球団経営のノウハウもないぽっと出の企業のチームに好き好んで就職する監督はいないだろう。栃村はそうは言わなかったが、多分俺の前にも相当な数の野球人に監督の打診をしたはずだ。それに全て断られたから、俺のような忘れられた人間を発掘して監督にならないかと言ってきたのだろう。
「……えーっと、どんな選手がいるんですか?」
「申し訳ありません。これにつきましては部外者には言えない規則になっております。監督を引き受けてくださるのであれば喜んでお伝えするのですが……」
「ああ、わかりました。そうですね」
「はい!」
 その後満面の笑顔を見せる栃村に、いくつか適当な質問を投げた後、俺は「……考えさせてください」の言葉とともに立ち上がった。
 栃村は笑顔のままで、名刺の裏に泊まっているホテルの名前と電話番号と部屋番号を書いて俺に持たせた。
「しばらくはここに滞在しておりますので、決まりましたらご連絡ください」

 狭い田舎町だ。噂はすぐに広まる。駅前の喫茶店で見慣れぬ人間と話していたのだ。話題にならない訳がない。
 玄関をくぐると、家族が総出で俺を出迎えた。妙に真剣な顔をしている。なんなんだ?
「……ただいま」
「お、お帰り。そ、それで、どうするんだ!?」
「話の内容、知ってんのかよ」
 親父をピシャリと黙らせると、俺はそのまま家に上がった。親父たちは色々聞きたそうな顔をしていたが、態度で拒絶する俺に切り出せなく、そのまままんじりともせず夕食になった。
 電話はしょっちゅうかかってきて、その度にお袋が「まだわからない」とかなんとか言い訳をしている。そんなに大事件なのかよ俺の就職が。
 お袋が俺の名を呼んだ。
「電話よ」
「誰?」
「オサフネさん」
……誰だろう。首をひねりながら受話器を持つ。
「俺だよ俺」
「誰だよ」
「忘れたのかぁー? 高校時代、お前の球を受けたキャッチャー様をよう!」
「……ああ、ビゼンか!」
 高校時代、俺とバッテリーを組んでいたキャッチャーだ。今は地元銀行に就職しているはずだ。本名を言われてわからなかったのは、皆ビゼンと呼んでいたせいだ。そういや、本名はオサフネだったっけ。
 ビゼンというニックネームの由来を、俺は知らない。
「で、どうするんだ?」
「何がだよ」
「とぼけるなよ。監督、引き受けるんだろ?」
「わかんねえよ」
「なんで?」
「決めてないよ」
「わっかんねーな、何を断ることがあるんだ? あ、あれか? 年俸が安すぎたとか」
「違うって」
「じゃあいくらだよ」
「そうじゃねえって!」
「てめこのやろ今度は口座作ってから出て行きやがれ!」
「何の話だお前の営業成績なんざどうでもいいっつの!」
「とにかく! 俺はお前が野球以外やってるとこなんざ見たくねーんだ! お前は俺らの希望の星なんだよ! わかれ!」
 電話は一方的に切れた。理由のわからないイライラを感じながら、俺は風呂に入った。
 湯を浴びて、ざぶりと風呂釜に身を沈める。ゆったりした一人の時間。考え事をするなら今だろう。
 俺には、野球しかないんだ。普通に考えれば、断る理由はない。プライドも糞もない。野球にしがみついて生きていく以外、何ができる?
「……お兄ちゃん」
 ふと我に返る。風呂場のドアの向こう、洗面所から妹が声をかけていた。地元企業に就職もして、結婚を考えるような相手もいるのに、いまだにちゃんづけで俺のことを呼ぶ。
「監督の仕事、受けるの?」
「……みんな、どこまで知ってるんだ?」
「新しい野球チームができるから、お兄ちゃんに監督としてスカウトが来たってとこまで」
「全部じゃねえか」
「……それで、受けるの?」
「お前はどうして欲しいんだ?」
「……」
 妹は黙り込んだ。戸の向こうで妹が立ち上がる音がした。
「野球やってないお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃないよ!」
 どたどたと走り去る音がした。
「……何才だっつーの」
 俺は息を止めてぶくぶくと頭まで湯につかった。

 かっちこっち。かっちこっち。
 暗い部屋の中で、俺は布団の中から見えない天井を見上げていた。
 思い浮かぶのは、一日の出来事ばかり。
 栃村の笑顔が張り付いた眼鏡顔。
「我が社のチームに、あなたを監督としてお迎えしたいのです」
 電話の向こうのビゼンの言葉。
「お前は俺らの希望の星なんだよ! わかれ!」
 戸の向こうの妹の言葉。
「野球やってないお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃないよ!」
 ああ、その通りだよ。俺から野球取ったら何も残んないよ!
 俺は跳ね起きて、部屋の電気をつけた。まだ起きてるだろうか、あの栃村は。不安とともに、電話をかける。2度のコールで出た。
「はい、栃村です」
 口を開こうとして、何も言えなくなる。口の中がカラカラだ。
「昼間のお返事でしょうか?」
 やっと、言葉が出た。
「……早い方がいい。今から出られるか?」
「え、今からですか? 構いません。まだ終電までは時間がありますし」
「荷物をまとめてすぐ行く。そっちもすぐに出られるようにしといてくれ」
「わかりました。お待ちしております」
 電話を切るや否や、俺は何かを振り切るように荷造りをした。と言っても、バッグの中に当分の着替えを放り込むだけだが。電話でタクシーを呼んでおく。荷造りが済むと同時に、タクシーが家の前に止まった。
 両親や妹には何も言わずに家を飛び出た。タクシーに乗り込み、駅前のホテルまでと叫ぶ。ホテルのロビーでは、栃村がすでにチェックアウトを済ませて待っていた。昼間と同じ格好だ。
「さあ、行きましょうか」
 俺は無言のまま、先に立って駅に向かった。
 券売機の前まで来ると、栃村が脚を早めた。
「交通費はこちら持ちですので」
「ああ、よろしく」
 さっきのタクシーのせいで手持ちがさびしくなり始めていたのだ。もちろん、貯金などある訳がない。
 栃村が買った切符を受け取り、改札を通って深夜のホームに立つ。出発まで、まだ後5分はある。すると、視界がわずかに揺れた。
地震か?」
 そうではなかった。地響きだった。何人もの人間が、ひとかたまりになって走る音。ふとホームの階段に目をやると、何故かそこにいた家族と目が合った。
「いた!」
 親父が叫んだ。その声に視線が一斉に俺を向く。家族だけではなかった。隣近所のおじさんおばさん、高校時代の野球部たち、その他顔も覚えていないようなたくさんの人々が、着の身着のまま詰め掛けていた。
 たちまちのうちにホームが人でいっぱいになった。俺は栃村の方を向いた。
「誰かに知らせたのか?」
「いいえ。本社の方にもまだ知らせていませんよ。貴方がやったのかと思いましたが……」
「俺も誰にも言ってないよ」
「俺俺、俺だよ!」
 一人が嬉しそうに叫んだ。タクシーの運転手。さっき俺が乗った奴か!
「もー、誰にも言わないなんて水臭いよ! あやうくおいてきぼりくらうところだったじゃないか!」
「……あ!」
 思い出した。妙に若い運転手だと思ったが、やっぱり高校時代のメンバーじゃないか。確かこいつは……マサムネだ。
 その時、電車がホームに入ってきた。栃村が俺に注意を促す。
 両親と妹と、俺は向き合った。
「向こうについたら、すぐに住所教えるのよ。足りないものがあったら送るから」
 お袋が水を飲むなとか小言を繰り出す。
「お兄ちゃん! 野球、頑張ってね!」
 親父は黙ったまま、僅かに頷いただけだった。
「そろそろ……」
「あ、うん」
 俺と栃村は乗車口をくぐった。俺は際に立ち、皆と向き合った。出発のベルが鳴る。扉が閉まる。ビゼンが俺の名前を叫んだ。
「監督就任っ、バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 ビゼンの音頭に合わせて、皆が万歳は始めた。見える顔全てが、笑っていた。俺の監督就任のことを、我が事のように喜んでくれていた。
 闇に向かって電車が走り出す。駅のホームで、いつまでもいつまでも、万歳は続いていた。そして俺は、いつまでもいつまでも、それを見つめていた。

「具体的な契約は、また明日にしましょう」
 席に落ち着いた俺は、向かいに座った栃村から今後の予定を聞いていた。
「しばらく時間がありますので、仮眠が取れるでしょう。空港に到着後、一番の便で出発です。そこからは社の車が迎えに来ていますので、宿舎まで一直線です。明日の昼くらいには到着するでしょう」
「宿舎があるのか。助かるな」
「ええ、実は専用の練習場を作ったのですが、どうにも山奥になってしまいまして、周囲に民家の一つもないと言う状況です。ですので、宿舎を作らざるを得なかったと言うのが本当のところでして。あ、もちろん、家賃は格安にさせていただきます」
「頼むぜ。金の話はまた後でな」
「ええ。あ、それと、ハンカチどうぞ」
 栃村は俺にハンカチを差し出した。俺はそれを受け取り、後から後から出てくる涙を拭った。
「……皆さん、本当に貴方がお好きなんですねえ」
「野球しか知らない馬鹿に、あんなに入れ揚げやがってよお。ホント、大馬鹿の集まりだぜ……」
「さ、寝ましょう。寝酒、どうですか?」
 栃村の出したウィスキーの小ビンから一杯だけもらい、一気に飲み干した。その琥珀色の液体は、喉を焼き尽くすようだった。さらに涙が出てきた。
 高ぶったような、安らかなような気分のまま、俺はぐっすりと寝入った。