第二話

「こちらです」
 栃村が案内した練習場兼宿舎は、ひどく山奥にあった。
 民家一つない山奥なのは確かだが、道だけは六車線の立派な道路であり、近くに高速のインターもあるようだった。
 道路の先には、広い敷地があったが、倉庫や工場と言った感じだ。
「我が社の出資する工業団地からいくらか土地や建物を買いまして、それをチームで練習に使えるように改修しました。宿舎も隣接して立っています。お荷物の方は宿舎に持っていって置きますので、まずは選手たちとあってください」
「そう言えば、誰がいるのかまだ教えてもらってないな」
「先入観を持たせることになるのではと思いますので、私の一存で伏せさせていただきました。何か不都合が?」
「いや、ないが……」
「なお、今後も私がチームと本社との連絡役になりますので、よろしくお願いします」
 ちなみに車の中ですでに契約は済ませてある。だから聞いたのだが、この通りかわされてしまった。契約の時に、栃村の言ったことが微妙に気になった。
「これで契約は成立です。なお、この雇用は1年毎に更新されますが、1年に満たないうちに破棄されますと、様々なペナルティが発生しますのでご注意ください」
 そう言ってペナルティの内容を列記した部分を示したが、最初の一項目を読むだけで途中でやめる気が失せるような内容だった。
「あ、ここです」
 荷物を運転手にまかせて、俺と栃村は車から降りた。真新しい人工芝の球場の側にそれはあった。何の変哲もない事務所のようなプレハブだったが、「選手棟」と真新しい札がついている。
 ドアをあけ、靴のまま踏み込む。廊下を通り、「ミーティング室」の扉の前に立つ。
「さ、選手たちがすでに貴方をお待ちです。どうぞお入りください」
「……ああ」
 内心の緊張を隠しつつ、選手になめられないよう、俺は精一杯の威厳を繕ってからドアを開けた。
 ドアを開けた途端、室内の視線が一斉にこちらを向いた。ミーティング室の中には、20人のメイドさんが俺を待ち構えていた。

「……あ、間違えました」
 俺はドアを閉めようとした。
「なにやってんですか! ここでいいんですよ!」
「いやだってメイドさんだよメイドさん!」
「彼女たちが選手なんですから、ここでいいんですよ!」
「メイドが選手なんて聞いてないよ!」
「言ってませんよ!」
「なんで言わないんだよ!」
「それはさっきも言ったでしょう!」
「女の指導なんかしたことねーよ!」
「あ、それはご心配なく。うちの選手はみんなメイドロボですから」
 かくん、と俺の顎が落ちる音がした。
 そして気がつくと、俺はミーティング室の前で、様々な顔かたちの20人のメイドさんたちと向かい合っていた。
「……あー。俺が監督だ。以後よろしく」
 てんでばらばらに返事が返ってきた。しかしどれも耳さわりは非常にいい。こんな女の子ばっかりの空間など初めてで、俺はすっかり舞い上がっていたように思う。
 かたわらに控える栃村がにこやかに俺を促した。
「それでは、選手紹介も兼ねて、監督に一体ずつ面接をしてもらいましょう」

面接が始まった。

背番号1

「んちゃ! アラレだよ!」
 その紫の髪をした少女(型のメイドロボ)は、ひどく独創的なあいさつをした。眼鏡の黒フレームがきらりと光る。
 俺が返事をしないでいるのを見て、そいつは首を傾げて「ほよ?」とほざいた。
 俺は隣で満面の笑みを浮かべる栃村を睨みつけた。
「アホの子か?」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「眼鏡をかけてる。ロボットが?」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「役に立つのか?」
「それはもう! 出力、あ、人間風に言えば筋力ですね。筋力は人間を遥かに凌駕しております。このチームの中でもトップクラスの腕力ですよ!」
「女の子にしか見えないが……」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」

背番号2

イフリータです」
 次のは逆にひどく無愛想だった。僅かにウェーブのかかった灰色のロングヘアーで、しかも肌は不健康そうな色をしていた。
 嫌味にならないくらいのグラマーで、ロシアに言ったらこういう女の子が夜の街に立っていそうだ。そこまで化粧は濃くないが。
「無愛想だな」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「一体アリスインダストリーってのは何の会社なんだ?」
「おや、ご存知なかったんですか? これらのメイドロボは我が社の一部門の製品ですよ」
「……もういいですか?」
 メイドロボに突っ込まれ、俺はギクリとした。
「あ、ああ。次の奴を呼んでくれ」
「わかりました」

背番号3

「ウランちゃんでーす!」
 今度はまた少女だった。幼すぎるほどに少女だった。天真爛漫な笑顔だった。黒い髪が、頭の両端でピンと跳ねていた。
「大丈夫なのか!」
「大丈夫です。見かけはこうですが出力は人間を遥かに凌駕し……」
「これ、おまえんとこの製品なんだろ? こんなの買う人間がいるのかよ! 何に使うんだよ!」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「こたえになってねえ!」

背番号4

 今度もまた少女だった。緑の髪で額を剥き出しにしていた。額には妙な模様が入っていて、その下に気の強そうな顔があった。
 そのメイドロボは黙ったままだった。
「……なんとか言えよ」
「はいロボ!」
 俺は栃村を睨みつけた。栃村の笑顔がひきつっている。
「……ロボ?」
「ええ、この機体は特殊な語尾を実装しておりまして……」
「それももしかして」
「ええ、それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「やっぱりなー、はっはっは……なめてんじゃねえぞ!」
 俺は栃村の首に手を伸ばした。
「ぐげーっ! ほらエルザ、次の呼んで次の!」
「はいロボ!」

背番号5

「オルガ、です。よろしくお願いします」
 金髪ロングヘアーのスラブ系の少女(型ロボット)が微笑んでいた。口数少ない、と言うか、しゃべる機能はあんまりよくなさそうだ。
「……だいぶまともじゃん」
「ええ。多段階変型機能を備えていますが、野球では使いません」
「変型機能?」
「元は育児用なんですけどね……」

背番号6

カリンカだよ! 監督さん、よろしく!」
 これもまた金髪スラブ系だったが、肌の色はオルガに比べて若干濃い。それにサイズは一回り小さい。バストサイズもだ。頭の左右上方にツンと尖った金髪のショートカットで、額には逆三角形の金属板が嵌められている。
「……言うこと聞かなさそうだな」
「あー、そんなことないよう」
「ちなみにこの機体はジェネレーターを2台積んだ試作型でして」
「聞いてねえよ」

背番号7

キャティです」
 そう言ったのは、気の弱そうなタレ目の少女(型ロボット)だった。ごく薄い紫のオカッパショートカットで、特に問題は起こしそうにはなかった。
「……」
「……」
「これだけ?」
「ええまあ。問題のある機体ばかりと言う訳ではありませんし。ちなみに観察力はかなりのものですよ」
「スコアブックでも書かせるか?」

背番号8

「くるみですぅ! よろしくお願いしますですぅ!」
 能天気な声を挙げたのは、ピンクの髪のでっかい女だった。でかいと言っても、モデルみたいにバランスが取れていて圧迫感などはない。しかも乳が揺れるほどにでかかった。長い長いピンクの髪をポニーテールにし、にこにこと揺らしている。
「……やっぱり、アホの子?」
「まーその。それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「ふううううううううん」

背番号9

「背番号9は欠番です」
「え、なんで?」
「まあ、開発には色々ありまして……」

背番号10

「コスモス、です」
 次に来たのは、薄い青いロングストレートに白い肌、無表情な顔の少女(型ロボット)だった。そいつは自分の名前を言うとそれだけで黙ってしまった。
「……無愛想だな」
「いえいえ、こいつはこう見えても破壊力は最高ランクですよ! その気になれば惑星の一つや二つ」
「そんなものを市販すんなよ!」
「デザイン的にも、綾波プラグスーツカラーリングは完成形の1つだと私自身は……」
「何言ってるのかわかんねーよ!」

背番号11

「サキと申します。監督さま、どうぞよしなに」
「あ、ああ、こりゃどうも」
 絶滅したはずの大和撫子を再現したような、黒髪ショートカットの少女(型ロボット)が頭を下げると、俺もつられてつい頭を下げてしまった。
 サキと名乗ったメイドロボは俺のその様子を見て、クスリと笑った。
「監督って、おかしな方ですね」
 鈴を転がすような笑いに、俺は柄にもなく赤面した。
 サキが次を呼んで来る間に、栃村は俺に釘を刺した。
「今見たように、サキは対人能力の点でかなりの自信作なんですが、それでも問題がありまして」
「どんな?」
「まあその。オーナー、つまり主人に対してよりも、同僚のメイドロボと仲良くなる傾向が見受けられます」
「……?」
「まあ、その、百合と言う奴ですな」

背番号14

「ゼロと申します。よろしくお願いします」
 さっきのコスモスと同じようなカラーリングのショートカットのメイドだった。しかもこいつにはさらに眼鏡がついている。無表情、と言うよりはビジネスライクな無愛想と言う感じだ。
「眼鏡かけてる」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」
「わかったよ。俺には理解できないが」

背番号15

「そ、ソルティです。よろしくお願いします!」
 濃い緑の髪を、独特な形容し難い髪型にまとめた少女が、ペコリと頭を下げた。
「……今、噛んだな」
「噛みました。確かに」
「そういう機能?」
「ええ、噛むことのできる機能をつけてます。人間味の研究の1つですね」
「変な機能だなあ」
「それがいいと申されるお客様もいらっしゃるので」

背番号16
背番号17

茶々丸です」
 背の高い、緑のロングヘアーの少女が自己紹介した。とても優しげで、傷つきやすそうだと思えた。……アンテナヘッドセットとか、関節が球体だったりしなければ、普通の少女で通りそうだ。惜しい!
「これもまた色々とできる機体でして。何より動物に好かれることができるのです」
「そりゃすごいな」
「まあ……性格的におとなしすぎて、この職業に向くかどうかはわかりませんが」
「駄目じゃん。……あ、次呼んできて」
「わかりました。失礼します」
 立ち上がった茶々丸が振り向いた。後頭部にネジ巻きが刺さっていた。
「……ゼンマイ仕掛け?」

背番号18
背番号19
背番号20

「……ドロシー、です」
 燃えるような赤毛をおかっぱにした、無愛想で釣り目の少女だった。
「正確には、ドロシー・ウェインライトと申しまして、姉妹機がいるのですがこれがまた素晴らしい機体でして」
「能書きはいいって。で、何ができるの?」
「一通りはできますが、そうですね。DVDプレイヤーを内蔵しているのがウリでしょうか」
「やっすいウリだなおい!」

第一話

 あの時のマウンドは、今でも夢に見てうなされる。
 九回裏二死満塁。絵に描いたようなギリギリの状況で、俺はマウンドに立っていた。投げれば、どうあっても決着がつく。勝つにしろ負けるにしろだ。
 俺は投げた。けれど、俺の肘が壊れたのはこのタイミングだ。今まで騙し騙しやってきたのが、最後の最後で耐え切れなくなったのだ。ボールを取り落とし、ボークを宣言され、押し出しの逆転負け。肘をおさえてうずくまった俺は、そのまま救急車で運ばれた。
 俺は勝負に挑むことすら許されなかった。

 引退した俺は、実家に帰り、ブラブラしていた。野球以外知らずにこの年まで来た男に務まる仕事などある訳でもなく、マスコミに垂れ流したビッグマウスな俺のイメージが邪魔して、野球の解説者の仕事が回ってくることもなかった。
 周囲の腫れ物を見る視線の居心地の悪さに、感覚が鈍磨して慣れてきた頃、その男はやってきた。
「アリス・インダストリーの栃村と申します」
 会うだけでも謝礼を出す、と言う言葉につられてのこのこ駅前の喫茶店に20分遅れで顔を出した俺を迎えたのは、これと言った特徴のない、眼鏡をかけた小柄なスーツの男だった。名刺には営業の文字の入った長い肩書きがあったが、俺は最初から覚えるのは諦めた。
 男は俺が遅れたことについては何も言わず、顔に愛想笑いを貼り付けてべらべらと色々なことをしゃべった。会社が何をしているかだとか、自分は昔かなりのどもり癖があって苦労したとか、どうでもいいことだ。
 ウェイトレスを呼んで冷め切ったホットのおかわりを頼み、湯気の立つコーヒーが二つテーブルに置かれたのを確認してから、俺は栃村の言葉をさえぎり口を開いた。
「あー、それで。アリス・インダストリーの……」
「栃村です」
「栃村さん。それで一体、俺に何の用です?」
 栃村はそこではじめて口をつぐみ、周囲を見回し、軽く咳払いをしてから声を潜めて真顔でこう言った。
「我が社のチームに、あなたを監督としてお迎えしたいのです」

 鍋常の脳の血管が破れ、血液を脳細胞にぶちまけて台無しにした事件からほどなくして、鍋常はロクに言葉がしゃべれなくなり様々な役職から引退した。引退はしたがほとんどは新しい名誉職に切り替わっただけだったが、実権はなく、老人ホームの「家賃」を与えるための捨扶持であることは誰でも理解していた。野球しか知らないこの俺でさえもだ。
 重石のなくなった球界は、リーグの分裂、球団の新設、球団のリーグ移動、選手の民族大移動などの激動の時代を迎えた。リーグごとにルールも微妙に変わり、ユニフォームも個性化し、ショービジネスの要素が取り入れられた。
 俺が実家から帰った直後、能天気な親父が野球について何か言っていた。確か、一昔前のプロレスみたいだ、とか。プロレスは格闘技ではなくショーなんだそうな。勝ち負けは最初に決まっており、選手はそのキャラクター性やストーリーなどを盛り上げて客を喜ばせるのが仕事なんだそうな。無論、そのパフォーマンスには頑健な肉体や高度な技術が必要であり、「つくり」なしでやらせればプロレスラーは決して素人ではないとか。
 正直プロレスのことなどどうでもよかったが、真剣試合ではなくショーであると言う意見には、俺も頷かざるを得なかった。
 俺が投手として所属していた球団は、最も古くからある二つのリーグの中央の方に所属しており、このリーグは技術志向、真剣勝負をウリにしていると野球ファンからは認識されている。それ以外のリーグは基本的にそこからあぶれた選手や新人だけで構成されているので、自然に技術よりもショーの要素で売るしかなかったのだ。
 ホログラフを駆使してリオのカーニバル大名行列を作り出し、それに合わせてブルペンからマウンドに上る投手など珍しくなかった。俺はそんなことはしなかったが。四番バッターにも時代錯誤なことに、酒を口に含み日本刀よろしくバットに吹きかけるパフォーマンスをする奴がいた。後で聞いたら、さすがに試合中に酒は飲まないらしく、容器を変えたミネラルウォーターだったそうだが。
 何より変わったのは、新しいリーグでは性別に関する規定が撤廃されたことだろう。むしろ「性別は問わない」と言った条文が追加されたところもある。国籍条項は真っ先に撤廃された。選手がそろわなければ試合もできないからだ。そんな訳で、新リーグの球団はそれぞれ国際色豊かなメンツがずらりと並ぶことになる。

 話を戻すと、アリス・インダストリーとやらもこのバブリーな時期に新規参入を決めた企業で、現在新球団の選手は集まったものの、監督がいない状況だ。正直、球団経営のノウハウもないぽっと出の企業のチームに好き好んで就職する監督はいないだろう。栃村はそうは言わなかったが、多分俺の前にも相当な数の野球人に監督の打診をしたはずだ。それに全て断られたから、俺のような忘れられた人間を発掘して監督にならないかと言ってきたのだろう。
「……えーっと、どんな選手がいるんですか?」
「申し訳ありません。これにつきましては部外者には言えない規則になっております。監督を引き受けてくださるのであれば喜んでお伝えするのですが……」
「ああ、わかりました。そうですね」
「はい!」
 その後満面の笑顔を見せる栃村に、いくつか適当な質問を投げた後、俺は「……考えさせてください」の言葉とともに立ち上がった。
 栃村は笑顔のままで、名刺の裏に泊まっているホテルの名前と電話番号と部屋番号を書いて俺に持たせた。
「しばらくはここに滞在しておりますので、決まりましたらご連絡ください」

 狭い田舎町だ。噂はすぐに広まる。駅前の喫茶店で見慣れぬ人間と話していたのだ。話題にならない訳がない。
 玄関をくぐると、家族が総出で俺を出迎えた。妙に真剣な顔をしている。なんなんだ?
「……ただいま」
「お、お帰り。そ、それで、どうするんだ!?」
「話の内容、知ってんのかよ」
 親父をピシャリと黙らせると、俺はそのまま家に上がった。親父たちは色々聞きたそうな顔をしていたが、態度で拒絶する俺に切り出せなく、そのまままんじりともせず夕食になった。
 電話はしょっちゅうかかってきて、その度にお袋が「まだわからない」とかなんとか言い訳をしている。そんなに大事件なのかよ俺の就職が。
 お袋が俺の名を呼んだ。
「電話よ」
「誰?」
「オサフネさん」
……誰だろう。首をひねりながら受話器を持つ。
「俺だよ俺」
「誰だよ」
「忘れたのかぁー? 高校時代、お前の球を受けたキャッチャー様をよう!」
「……ああ、ビゼンか!」
 高校時代、俺とバッテリーを組んでいたキャッチャーだ。今は地元銀行に就職しているはずだ。本名を言われてわからなかったのは、皆ビゼンと呼んでいたせいだ。そういや、本名はオサフネだったっけ。
 ビゼンというニックネームの由来を、俺は知らない。
「で、どうするんだ?」
「何がだよ」
「とぼけるなよ。監督、引き受けるんだろ?」
「わかんねえよ」
「なんで?」
「決めてないよ」
「わっかんねーな、何を断ることがあるんだ? あ、あれか? 年俸が安すぎたとか」
「違うって」
「じゃあいくらだよ」
「そうじゃねえって!」
「てめこのやろ今度は口座作ってから出て行きやがれ!」
「何の話だお前の営業成績なんざどうでもいいっつの!」
「とにかく! 俺はお前が野球以外やってるとこなんざ見たくねーんだ! お前は俺らの希望の星なんだよ! わかれ!」
 電話は一方的に切れた。理由のわからないイライラを感じながら、俺は風呂に入った。
 湯を浴びて、ざぶりと風呂釜に身を沈める。ゆったりした一人の時間。考え事をするなら今だろう。
 俺には、野球しかないんだ。普通に考えれば、断る理由はない。プライドも糞もない。野球にしがみついて生きていく以外、何ができる?
「……お兄ちゃん」
 ふと我に返る。風呂場のドアの向こう、洗面所から妹が声をかけていた。地元企業に就職もして、結婚を考えるような相手もいるのに、いまだにちゃんづけで俺のことを呼ぶ。
「監督の仕事、受けるの?」
「……みんな、どこまで知ってるんだ?」
「新しい野球チームができるから、お兄ちゃんに監督としてスカウトが来たってとこまで」
「全部じゃねえか」
「……それで、受けるの?」
「お前はどうして欲しいんだ?」
「……」
 妹は黙り込んだ。戸の向こうで妹が立ち上がる音がした。
「野球やってないお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃないよ!」
 どたどたと走り去る音がした。
「……何才だっつーの」
 俺は息を止めてぶくぶくと頭まで湯につかった。

 かっちこっち。かっちこっち。
 暗い部屋の中で、俺は布団の中から見えない天井を見上げていた。
 思い浮かぶのは、一日の出来事ばかり。
 栃村の笑顔が張り付いた眼鏡顔。
「我が社のチームに、あなたを監督としてお迎えしたいのです」
 電話の向こうのビゼンの言葉。
「お前は俺らの希望の星なんだよ! わかれ!」
 戸の向こうの妹の言葉。
「野球やってないお兄ちゃんなんて、お兄ちゃんじゃないよ!」
 ああ、その通りだよ。俺から野球取ったら何も残んないよ!
 俺は跳ね起きて、部屋の電気をつけた。まだ起きてるだろうか、あの栃村は。不安とともに、電話をかける。2度のコールで出た。
「はい、栃村です」
 口を開こうとして、何も言えなくなる。口の中がカラカラだ。
「昼間のお返事でしょうか?」
 やっと、言葉が出た。
「……早い方がいい。今から出られるか?」
「え、今からですか? 構いません。まだ終電までは時間がありますし」
「荷物をまとめてすぐ行く。そっちもすぐに出られるようにしといてくれ」
「わかりました。お待ちしております」
 電話を切るや否や、俺は何かを振り切るように荷造りをした。と言っても、バッグの中に当分の着替えを放り込むだけだが。電話でタクシーを呼んでおく。荷造りが済むと同時に、タクシーが家の前に止まった。
 両親や妹には何も言わずに家を飛び出た。タクシーに乗り込み、駅前のホテルまでと叫ぶ。ホテルのロビーでは、栃村がすでにチェックアウトを済ませて待っていた。昼間と同じ格好だ。
「さあ、行きましょうか」
 俺は無言のまま、先に立って駅に向かった。
 券売機の前まで来ると、栃村が脚を早めた。
「交通費はこちら持ちですので」
「ああ、よろしく」
 さっきのタクシーのせいで手持ちがさびしくなり始めていたのだ。もちろん、貯金などある訳がない。
 栃村が買った切符を受け取り、改札を通って深夜のホームに立つ。出発まで、まだ後5分はある。すると、視界がわずかに揺れた。
地震か?」
 そうではなかった。地響きだった。何人もの人間が、ひとかたまりになって走る音。ふとホームの階段に目をやると、何故かそこにいた家族と目が合った。
「いた!」
 親父が叫んだ。その声に視線が一斉に俺を向く。家族だけではなかった。隣近所のおじさんおばさん、高校時代の野球部たち、その他顔も覚えていないようなたくさんの人々が、着の身着のまま詰め掛けていた。
 たちまちのうちにホームが人でいっぱいになった。俺は栃村の方を向いた。
「誰かに知らせたのか?」
「いいえ。本社の方にもまだ知らせていませんよ。貴方がやったのかと思いましたが……」
「俺も誰にも言ってないよ」
「俺俺、俺だよ!」
 一人が嬉しそうに叫んだ。タクシーの運転手。さっき俺が乗った奴か!
「もー、誰にも言わないなんて水臭いよ! あやうくおいてきぼりくらうところだったじゃないか!」
「……あ!」
 思い出した。妙に若い運転手だと思ったが、やっぱり高校時代のメンバーじゃないか。確かこいつは……マサムネだ。
 その時、電車がホームに入ってきた。栃村が俺に注意を促す。
 両親と妹と、俺は向き合った。
「向こうについたら、すぐに住所教えるのよ。足りないものがあったら送るから」
 お袋が水を飲むなとか小言を繰り出す。
「お兄ちゃん! 野球、頑張ってね!」
 親父は黙ったまま、僅かに頷いただけだった。
「そろそろ……」
「あ、うん」
 俺と栃村は乗車口をくぐった。俺は際に立ち、皆と向き合った。出発のベルが鳴る。扉が閉まる。ビゼンが俺の名前を叫んだ。
「監督就任っ、バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 ビゼンの音頭に合わせて、皆が万歳は始めた。見える顔全てが、笑っていた。俺の監督就任のことを、我が事のように喜んでくれていた。
 闇に向かって電車が走り出す。駅のホームで、いつまでもいつまでも、万歳は続いていた。そして俺は、いつまでもいつまでも、それを見つめていた。

「具体的な契約は、また明日にしましょう」
 席に落ち着いた俺は、向かいに座った栃村から今後の予定を聞いていた。
「しばらく時間がありますので、仮眠が取れるでしょう。空港に到着後、一番の便で出発です。そこからは社の車が迎えに来ていますので、宿舎まで一直線です。明日の昼くらいには到着するでしょう」
「宿舎があるのか。助かるな」
「ええ、実は専用の練習場を作ったのですが、どうにも山奥になってしまいまして、周囲に民家の一つもないと言う状況です。ですので、宿舎を作らざるを得なかったと言うのが本当のところでして。あ、もちろん、家賃は格安にさせていただきます」
「頼むぜ。金の話はまた後でな」
「ええ。あ、それと、ハンカチどうぞ」
 栃村は俺にハンカチを差し出した。俺はそれを受け取り、後から後から出てくる涙を拭った。
「……皆さん、本当に貴方がお好きなんですねえ」
「野球しか知らない馬鹿に、あんなに入れ揚げやがってよお。ホント、大馬鹿の集まりだぜ……」
「さ、寝ましょう。寝酒、どうですか?」
 栃村の出したウィスキーの小ビンから一杯だけもらい、一気に飲み干した。その琥珀色の液体は、喉を焼き尽くすようだった。さらに涙が出てきた。
 高ぶったような、安らかなような気分のまま、俺はぐっすりと寝入った。

八日目

 私が家に帰った時、やはり家事は何もできていなかった。元の木阿弥と言う奴だ。あれだけ読めば少しは満足すると思うのだが……。
 頭突きでリビングの照明を入れ、妻が寝そべって何を読んでいるかを確認する。読みながら妻がにやにやむふむふ笑っている。聞いたことのないタイトルに聞いたことのない作者。
「……誰の本?」
「んー。やおい三国志
 妻の端的な説明に、少々引く。妻と結婚した時、腐女子趣味については了解済みだった。それはもちろん、妻も私のオタク趣味について了解済みだったことも意味する。お互いの趣味については口を出さないことが、暗黙の了解としてすでにある。しかし、三国志やおいとは。
「世の中、色んな人がいるなあ……」
 私は逃げるように台所に飛び込んで料理を始めた。

七日目

 どうやら妻は速読家らしい。いや、薄々思っていたことではあるが。
 家事は全くしなくなるものの、一日で五冊の文庫本を読破すると言うのは並大抵の速度ではないだろう。しかも、私が気付いていないだけでちゃんと間に目の休息を挟んでいたのだ。これは驚きだった。
 もっとも、読み終わった直後の妻の放心した表情や、それからしばらくしてやってくる落ち着かなげな様子などは、麻薬中毒か何かと見まがうばかりの異常さを感じられた。明日は休日その二なのだから、神様と同じように休ませようと思う。
 翌朝、私は妻を誘って近所の公園に出た。外に手ぶらでいれば本を読むこともあるまいと思ったからだ。狙いはあたり、妻は芝生の上で陽光と風に触れ、気持ちよさそうに目を細めた。そのまま眠り込んでしまったのは意外だったが。連れて帰るのに苦労した。
……結局、料理は私がした。妻がそのまま目を覚まさなかったからだ。

本日の本

なし

六日目

 今日は休日だったので、私は朝からリビングにいた。妻は昨日のうちに昨日の本を読み上げてしまって手持ち無沙汰だったらしく、朝食を作ってくれた。くれた? いや待て。そう言えば朝食だけは毎日妻が作っていた。その他の家事は全くできていなかったが、朝だけはきちんと起きていた訳だ。規則正しいと言えば規則正しいが……。
 妻が入れてくれた食後のコーヒーを飲んでゆっくりしていると、チャイムが鳴り、返事を待たずに玄関ドアが開いた。勝手知ったるなんとやらと言う雰囲気を漂わせて、ドカドカとリビングに入ってきたのは、妻の友人の矢追さんだった。確か妻と同い年で、腐女子仲間だ。
「おっはようございまーっす!」
「おはようございます」
 矢追さんは私と少し世間話をすると、目を輝かせて「よし」の一言を待つ犬のような妻に向けて、「ほい」と手に持っていた紙袋を手渡した。
 妻は喜色満面でその袋を受け取り、中身を床にぶちまけた。三好徹の文庫本が山をなした。
「それじゃーねー!」
 矢追さんは手を振って去っていった。私はそれを玄関まで見送ったが、リビングに戻ると妻はすでに黙々と読み始めていた。今日も読書三昧するつもりらしい。

五日目

 私が帰った時、家の中は何もできていなかった。手に持ったスーパーの袋の重さが、私を悲しい気分にさせた。嫌な予測ほど当たるものだ。食材を買ってきておいてよかった。
 両手がふさがっていたので、肩でリビングの照明をつけると、ソファーに寝そべった妻の姿が闇の中から浮かび上がり、寝返りを打った。
 今日のはなんだろう。私は近寄って目を凝らす。
「……あ、この人の封神演義は結構面白かったんだよなあ」
「んー?」
「で、どう?」
「んー。章の最初の説明は面白いけど、本文はイマイチ」
 妻からまともな返答がもらえるとは期待していなかっただけに、内容ともども驚いてしまった。
「そっかー、イマイチなのか……」
 私は封神演義のストーリーを思い出しながら、台所に立ちスーパーの袋から食材を取り出し、料理にかかった。

四日目

 私が帰った時、家の中は何もできていなかった。もはや慣れた。
 百年前からの日課のようにリビングの照明をつけると、やはり百年前からの日課のようにそこに妻がいて、読書していた。
 そして、読んでいる本だけが変わっていた。
 何より、作者が変わっていた。国産、しかも女流だった。
「色んな三国志があるもんだねえ……」
「んー」
 私は台所に立って料理を始めたが、妻がいつも誰から大量の本を借りているのかを聞き忘れたことに気づいた。